2020/05/22

Ms.Private -恋が終わる時に残されるもの。-

小説web限定

Ms.Private -恋が終わる時に残されるもの。-

 

あの始まりの日を、私は今でも昨日のことのように思い出す。
見慣れた景色が色めいて見えた、思いがけずに再会したあの朝を。
とろけるような甘い記憶と、悲しみが落とした苦みの欠片。
そのどちらも大切に抱えながら、私は今を生きている。





今から3年前、私はあるレストランのオープニングに携わった。
ウエディング対応の大型レストランはそれなりに話題になり、プレス発表の日にはたくさんの業界関係者やメディア、運営スタッフなどが集まった。
パーティは私の会社に全面に依頼され、レセプション当日までの企画から全てに関わった。
ふっと息をついて賑わう会場を見渡すと、
かしこまった会場の隅で小さく賑わう若いスタッフたちがいた。
彼はその中の1人だった。

 

最初の印象は特に強烈なものはなかった。

 

シンプルな黒のTシャツ、柔らかく目にかかる前髪、何にも縛られていない自由さと若さをそことなく全身に散りばめているように見えた。
その若さが眩しく映ったが、今の私の世界からはうんと遠くに感じた。

当時、自分の立ち上げた小さな会社がようやく軌道にのりかけていて、やれる仕事は何でも引き受けた。
多くの人と日常的に知り合い、いつの間にか疎遠になっていくことの繰り返し。
彼との出会いもその程度のものだと思っていた。

日を追うごとに、少しずつ彼について知ることが増えていく。
数人いる若手スタッフの中で一番背が高いということ。
必要以上に誰かと会話をしないこと。
笑わないということ。
10歳も歳が違うということ。
優しい声をしているということ。

 

そんなに細かく覚えているなんて、今思えば、相手を意識していたという証拠だ。

 

気が付けば、無意識に彼を追ってしまう自分がいた。
横顔がきれいだなとか、立っていると姿勢が美しいだとか、
密かに私は新しい発見を楽しんでいた。

視界のだいぶん先で、
殆ど笑わない彼の小さい笑顔を見た時に、不意打ちをくらったようにドキッとしている、
ちょっとしたことで
心が揺らいでしまう自分がいた。

心地よい緊張感が女である私を呼び起こす。
この感覚はいつぶりだろう。

だからと言って、それ以上の何かに簡単には発展しないのが現実だ。
パーティは無事に終わり、その時の私たちは小さな繋がりさえ持つこともなかった。

 

 

この手の出会いは、割と転がっている。

 

30半ばになる私は、それなりに出会いを経験していて、
少しのときめいた気持ちに飛びつくリスクも知っていたし、
安定を求めた出会いが、
トキメキをおざなりにしてしまうことも分かっていた。

だから、芽生えた好意に慎重になる必要があり、
フランクに始まったと思えた出会いが、
知らないうちに、相手に結婚という圧力をかけてしまうことも避けなければいけなかった。

小さな興味が空回りしては相手に量られ、
挙句に、まるで失恋したかのような錯覚に陥る危険性は避けなければならない。

出会いと別れをぐるぐる繰り返し、
それでも、傷跡がいつのまにか消えていた20代の頃のように、

大人の女はそう簡単には立ち直れない。

恋の始まりに、前のめりになってはいけないと言い聞かせていた。

 

運命だと感じる瞬間は、時間が止まる

 

交差点ですれ違った横顔に見覚えがあった。
パーティから半年後の
ごく当たり前の日常の朝、

私はよく見かけるドラマのワンシーンのように、偶然に彼と再び出会った。

出勤のラッシュを少し過ぎた時間、
人込みがまばらになりかけたその交差点で
すれ違った瞬間に、
互いの空気がふわりと絡んだ。

彼の周りだけ、時間がゆっくりと流れていた。
私は彼だと確信して振り返った。
道の向こう側にいた彼は、
呆れるくらい無邪気な笑顔で手を振っていた。

 

あ、やられた。その笑顔が刺さっている自分に気付く。

 

その数時間後、
ライングループから彼を探し出し、
私は初めて個別にメッセージを送った。
挨拶程度のメールを可愛く送るにはどうするんだっけ、
悩む自分を可笑しく思えた。

彼を知りたいという気持ちが率直にあった。

知ったところでどうするのか、その先を見るには若すぎるとか、
出会いを慎重にと思っているはずなのに、
女の本能が理性を押し込んでしまっていた。

駆け引きのような言葉にどぎまぎして、
言葉のニュアンスに敏感になる、
そこからは、あっという間だった。

「仕事の打ち上げ軽くしたいですね」という
彼からの言葉に乗っかるように約束をして、
その1週間後に私たちは乾杯をした。

まともに話したこともないのに、私たちは妙に気があった。
まるでずっと前から知り合いだったように、
違和感を覚えることなく、ごく自然に距離を縮めた。
重なっていく空気感が心地よくて、
気が付けばあっという間に時間が過ぎていた。
お互いを知る事を急ぐように、とりとめのない会話を続けることに没頭した。
あまり笑わないと思っていた彼はよく笑った。
その度に
心をきゅっと掴まれて、胸の奥がひりひりした。

涙がでるほど笑って、私たちはいつまでも話を止めなかった。
彼の顔を見ていると触れたいと思い、その髪を撫でたいと思った。

彼が、初めて会った日からずっと見てた、と呟いた。
思いがけない偶然が2人を引き寄せて、私たちは意志を持って再び出会ったのだと確信した。

 

「これは恋ではないよね。私はもういい大人の女じゃなかった?」

 

大人の女は、恋だけを楽しむことがなかなか難しい。
どうしても始まった恋のその先を考えてしまうからだ。
この先の人生を生きるためには、恋心だけでは乗り越えられないと知っている。 

好きだけど、その人とは未来が描けるの?生活は考えられるの?
結論が出るまで自問を繰り返す。
大人になるほど窮屈になる。

 

それなのに、どうしようもなく恋に落ちたと気付く。

 

彼は私に迷わなかった。
痛いくらいに真っ直ぐに気持ちをぶつけられ、若い熱量にほだされていった。

私は恋に落ちた。
甘い幸せに満ち溢れた日々。
私たちは苦しいほどにお互いを求め合った。

彼の仕事は不規則で、生活自体が不安定だった。
私が出会ってきた男の人達とはちがう、
その不安定さが、儚げな純粋さを強調させていた。 

生きてきた時間や環境の違いを埋めるように、私の全てを知りたがった。
互いを知れば知るほど不安になりながら、
それでも、先行き不透明なこの関係に
溺れてしまう自分がいた。

その頃の私は、現実を先延ばしにして、
どうしても拭えない不安なその先から
目を背けていたのだと思う。
彼との時間を作る事を最優先し、二人の時間はより濃ゆく深いものになっていった。

 

日常の中に非日常を入れ込んでいった。

 

偶然は運命だと、出会いは必然だったと信じたくて、二人の溝を埋めるのに必至だった。

彼の生活パターンに無理してでも合わせ、一緒にいる時間を増やした。
年上の女に足りない可愛さを従順さと勘違いし、生活レベルのギャップを見せないように慎重になった。

それでも、私は彼とのに恋に貪欲におぼれていた。

 

女として幸福すぎる時間、与えてくれたのは安定ではなかった

 

ひたむきな純粋さで作られた彼の世界は、私が戻りたい場所だったのかもしれない。
不器用だけれども嘘のない世界。
かつて置いてきた自分を重ねて、その特別な世界を壊したくなかったのだ。 

不安定な彼から見えた私は、
違う場所に、自信と安定を手にして生きていると映っていたのだと思う。

私との未来に不安になり、彼の思いは次第に私の全てを把握したいという焦りに形を変えた。
彼は私をコントロールしようとし、私はそれに応えようとする。
二人の関係は少しずつ歪んでいたのに、もうどうしたらいいか分からなかった。
それでも、彼を失うことが怖かった。

 

好きだから苦しむ。愛の形が変わっていくことを知る。

 

不安と不満の間を行き来する彼の表情を見るのが辛く、言いたい事の半分も伝えられなくなった。
彼の期待する言葉を先読みして
自分の真意が何なのか、何を欲しているのかが分からなくなっていった。

好きだという思いは相変わらずなのに、自分の気持ちを信じる事に疲れていく。
思いが深いところで絡み合い、
深いが故に自由に動けない。
苦しみながらも、時折の穏やかな時間に全てが淘汰される。
「私、幸せなんだよね?」
そう思い込むしかなかった。

 

好きのまま逃げ出すように私は自分を解放した。

 

幸せな気持ちと同じくらい、私たちは辛くなった。
満たされない彼の思いは私へ向けられ、
やるせない思いをぶつけるようになった。
彼自身が自分をコントロールできずにその叫びを訴えているように感じた。

それでも、
私は情けないくらいに彼に恋をしていて側にいることしかできなかった。

 

こんなに心が壊れるほど、誰かを好きになることはもうないだろうと思う。

 

だからこそ、私は彼を失う決意をした。
彼の人生から私が外れる事が、彼にとっての幸せな未来につながると思った。

人生最大の恋は、手放す事で愛しく思えるのかもしれないと、
そう自分に言い聞かせた。

まとわりつくような愛情に包まれた時間を失い、あっという間に私は空っぽになった。
感覚が麻痺したように、
しばらくは失った悲しみを実感できなかった。

彼からの連絡が途切れ、
その静かな決意がじわじわと私を悲しみに導いた。
彼の温もりを忘れかけている自分に気付いた時、私は初めて大声で泣いた。

ああ、そうか、私は一人になったんだ、と。

 

受けた愛情は、自分の中に愛の痕跡として刻まれる。

 

幸せな時間と引き換えに残されたその痕跡は、苦みがじわじわと広がるように、
どうしようもない切なさと一緒になって彼の存在を思い出させる。

それはいつまでも色褪せることなく私の心に広がり続け、あの恋が心の中で生きているとさえ思えてしまう。
二度と会えないと分かっているのに、その痛みから逃れることはできない。

大人の恋は、落ちたら最後
終わりを告げても失った愛に支配され続けてしまう。

 

だから、どんなに時が経っても、
彼を忘れることはないだろうと思う。
喜びも苦しさもひっくるめて漂い、恋の重さを改めて感じる。
私はどうしようもなく恋に落ちた。
深く絡み合う愛の重さに、自由さえも手放してよいと思える程に。

 

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大人の恋は、厄介だ。

 

大人になれば、恋のリセットは簡単にはいかない。
どうしようもない恋の記憶は、痛みさえもいつまでも消せないものになる。
次の恋にあなたが出逢えたとしても、決して無くすことはできないのだから。
それは、自分に残された誰かに愛されたしるし、
喜びも苦みも全てを深く刻んだ愛情の軌跡。

 

 

No:147

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